いつもより少し早起きをして、こんなにも人を引き寄せる祭りの魅力って、いったい何だろうと考えています。
祭りの日が待ち遠しかった子どもの頃、テキ屋で売っている「戦車のオモチャ」に心躍らせていました。玩具屋が無い山の中の村に育ち、遊ぶためのオモチャはマッチ箱をのり付けして作っていたから。幼児期の単純な物欲から始まった祭りへの興味。獅子舞に参加できる小学校高学年になった頃には、太鼓や神輿などで堀坂神社の秋祭りを、こども会が主体となり盛り上げていました。学級崩壊で窓ガラスが無かった津山東中学校生活は、きつかった剣道部の生活と不良とのケンカくらいしか覚えていません。高校になり「十六夜祭」という体育祭で、運動部応援団という祭りに末田は出会います。みんなで力を合わせて母校を盛り上げ、互いに純粋な気持ちで競い合い、生きる喜びを青空の下表現する。津山高校生にとって、人を蹴落とす受験勉強と真逆の文化活動は、青春期の正義でした。
そういった祭りの喜びに良く似た体験をしたのが、最初に就職した出版社での編集体験でした。広告媒体の迎合営業ありきとは違う、「文化」を作る行為(無広告出版)を任せられた時のことです。写真、エッセイ、レイアウト、自分のセンスが全て試される舞台に、ビビりながらも心底感動しました。
38歳で田町への薬局出店(超激戦区)を決めた末田の目標に、徳守奴保存会への参加がありました。地域の健康サポート薬局として、高齢者や弱者を元気付けるミッションのひとつが、祭りへの参加だったからです。
奴さんのひとりとして参加する徳守秋祭り、奴さんたちの化粧直し場などに薬局を提供。理念である地域貢献の道筋へと、津山の秋祭りが自分の中で繋がっていきました。
参覲交代大名行列を歌舞く末田に、実のところ殿様は居ません。踊りの命令を下す指揮官が、誰であろうと知ったことでもありません。ほんの一時、日々のわずらわしい出来事を忘れ、楽しく美しく躍り狂えたら、それで十分熱量を注ぐ価値があるからです。
ところがある時、町人の文化である御神輿やだんじりの「祭り」と武家の文化である「大名行列」は意味合いが違うという意見が、奴保存会の一部から新聞発表されました。一人の兵隊として行列に参加してはいたものの、どうして御神輿や獅子舞そしてだんじりと一緒に行進しないのか。末田にはそのことがずっと疑問でしたので、武家屋敷田渕邸を取り壊して田町にだんじり保管庫を作ることに反対する人々とは袂を分かち、田町連合青壮年の総意として「だんじり保管庫に反対」とすることに異議を申し立てました。
権力をもった殿様のために踊っているのではなく、空の上で見てくれている神様のため、末田は江戸時代を歌舞いているのです。気持ちは神輿の担ぎ手も、だんじりの引き手も、もちろん奴行列に参加する人々も、祭りを楽しみにしてくれている観客も津山のみんな同じ気持ちだと思います。
目先の利益のためでなく、目に見えないsomething newのために。
この町の伝統と、新しい未だ見ぬ未来を、つなぎ合わせるために。
家族総出演で春夏秋冬、津山の祭りに参加してきた末田家の面々。
個人主義の現代で、当然の様にバラバラだった人々の気持ち。それをひとつにまとめ上げる何か不思議な力を祭りは持っている。その「力」を末田家の人々は実感しています。
神さまに守られた有り難い人生。
記念すべき令和元年10月27日。
独立開局し早いもので12年が経ちました。徳守神社の御神輿をはじめて担いでみようと考えた理由。それはお祭り当日が、人生の折り返し地点51歳の誕生日に当たったことでした。
早朝の城下町津山をぐるり7キロ、早朝ランニングするようになって、2カ月になります。トレーニングで足腰を鍛え、御神幸の担ぎ手に参加するためでした。
朝日に向かい吉井川の流れにそって走っていると、この人生も大河の一滴のように感じられ、とても心やすらかな空気に包まれます。
朝ランはじめて、これまで知らなかった数々の津山の美しい景色に出会いました。
東京出張で津山不在の時は、皇居を静かに走りました。
中1の長男が一緒に走ってくれた朝もありました。
現代人が本能的に「心地よい」と感じるもの。
健康へと導いてくれるイベント。
頬を撫でる心地よい風のような文化。
それが美作地方、津山のまつりだと思います。
この時空間を味わうため、日曜日は観光客が全国からやってきます。