昨日の午後、鏡野中学校で「生きる力」についてのお話しをさせていただきました。主題は「喫煙防止教室」です。末田がこの様な活動をはじめたのは、はるかむかし20年以上も前27歳の頃だったと記憶しています。
まだ独身で自由の身だったし、仕事も高給取得サラリーマンだったので、人生に何の不満もなく車道楽にふけり、社会を斜めにみてる若者バカものでした。
繰り返される日常の中で、末田の人生にある疑問がわきます。自身のなりわいとしている「薬業界」という世界は、何か大きな闇を抱え成り立っているのではないだろうか。その闇の正体らしきモノをこの目と耳と頭で、しっかり明らかにしてみたい。当時の末田は広瀬隆さんの「赤い盾」を熟読したものです。その1冊から広がる各分野の書籍から、合成化学物質というモノの社会的な成り立ち、世界の歴史、インドのティー、アフリカのダイヤモンド、南アメリカのコーヒー、その他様々な薬物からドラッグにいたるまで、世界の裏の歴史を縦横無尽に学びました。
26歳まで末田自身も喫煙者でしたから、タバコへの依存やその習慣性は良く理解しています。コーヒーに関しても、京都での予備校の1年、珈琲焙煎抽出専門店でアルバイトしていたくらい大好きです。薬に関しては、もう言わずもがなですね。
社会の仕組みや世界の歴史を学ぶ中で、これは次世代へ伝えなきゃいけないなって考える様になりました。そこでまず始めたのが、処方薬の投薬口でお母さんや子どもに真実を話すことでした。馬鹿な男の雇用を継続してくれる優しい経営者のもとで働いていたのだと、当時をふりかえり感謝の気持ちで頭がさがるおもいです。20代の終わりになった末田は、仕事場を津山から県境の奈義町へ移します。その頃の一般的な小中学校は、外部講師の受け入れにとても慎重でした。奈義町はとてもおおらかな場所で、医師とコラボしていろんな取り組みに挑戦したものです。
徐々に取り組みのうわさが広がって、岡山県北だけでなく県南からも講演依頼がはいる様になりました。大学の薬学部が6年制に移行する直前の頃で、岡山県薬剤師会の理事を兼務し、サラリーマンでありながら専門職と公職を同時にこなす日々を送っていました。何かを捨てないと、この前には進めないなって、ギリギリの生活の中で感じ始めていました。
直感は実感、実現へと向かいます。末田は運良く地元津山で、自分の会社を起業することになります。雇用に関する人の問題、薬品購入の資金繰り、はじめて体験する様々な問題に頭を抱える中、講演会依頼を断ることが増えていきました。会社の存続が何より優先の課題だったからです。
「この末田先生は、君たちに生きる力をつけるために、鏡野中へきてくださった。会社を起こされた理念も、未来へ繋がる教育を継続したいという想いからだ。校長の私も、みんなと一緒に、先生が来てくださるのを楽しみにしていた。いっしょに心して聴こう。」
何年前だったでしょうか、今日を講演活動の最後の日にしよう、そう考えてこの学校へ訪れた日、講師紹介の中で校長先生がこどもたちへ話されました。
この学校での授業だけは、中途半端にすることは出来ないな。
僕の授業が鏡野中だけで継続されてきた理由は、そういうわけなのです。