末田芳裕の参加する「医療系大学の臨床実習」が、今週をもって終わりました。ふり返ればここ10年以上、そのためだけに走り続けてきた様にも思います。
家庭医療を実践された田坂医師の志と奈義で出会い、プライマリケア連合学会松下医師のもと、臨床教育のたのしさを30代の僕は学びます。折しも日本の薬学教育が6年制に移行、医学部の様に付属の大学病院(大学薬局)を持たない薬学部は、地域の薬局へ教育施設としての役割を求めることになります。創業期からマスカット薬局の広告塔だった末田芳裕へ、実務実習担当理事の席が(どういう理由だったのか今となっては分かりません)用意されました。マスカット薬局高橋社長と当時の中本会長の段取りで、岡山県薬剤師会サラリーマン理事が誕生することに。
大学教授や講師の先生方、全国の薬局経営者、病院の薬剤部長たちとの時間は、末田芳裕に様々な経験を与えてくれました。一方で決裁権をもてないサラリーマン故の歯がゆさ、まわりの薬局スタッフとのスピード感のちがい、いろんな問題が表面化してきたのもこの時期でした。
「ぜんぶ用意したよ。(同級生◯△◯子さん)」
「自分の会社をつくる方法もありますね。(当時の津山ファミリークリニック院長田中医師)」
「自分の力でたべられるようになってくださいね。末田君なら5年で結果を出せるでしょう。(◯△内科クリニック院長◯△医師)」
「末ちゃんなら十分やれると思うよ。(こやま薬局小山社長)」
先輩や友人の支えがありました。そして誰よりもお世話になった◯△薬局の◯△社長。仁義の人は、独立前の一番不安だった時代を支えてくださいました。津山第一病院の夜勤アルバイトの手配まで準備して。
本当にみなさんのおかげで、苦労知らずの男は平成20年「たなぼた」の薬局をもつことになります。そこで行う薬局実務実習(里帰り実習)が、末田芳裕の経営する薬局のとてもおおきな使命でした。6年制(平成18年の入学生が5年になる夏)の一期生から実習生を継続して受け入れてきた本当に「ちいさな会社」。医学部の地域学習(岡山大学や川崎医科大学)にも協力を惜しまず、一年中受け入れてきました。もちろん看護学生や医療秘書の専門学校生にも門戸を開いて。
何故、僕は会社の柱であった「医療系大学の現場教育」を辞めてしまったのでしょう。
調剤薬局を取り巻く環境は、門前の報酬点数引き下げなど、どんどん厳しさを増しています。10年後に生き残っている調剤薬局は、現在の半数も無いだろうと話す関係者もあります。しかしながら調剤バブルが終わった後で開業した僕には、現在の激変はむしろ当然のことでしかなく、どこ吹く風の感という心境でしかありません。
僕が実務実習から手を引くのは、収益の減少(そちらに向ってるけど)や専門職確保の困難(辞めてもらってるけど)なんかよりもっと重大な理由があります。
自分の人生を考える時間が、その転換へのきっかけでした。
方向転換の理由をあげればきりがありません。現在の薬剤師たちとその人々を取り巻く薬業界に、物心ついた時からまったくもって絶望しているから。スタッフみんなが主体性をもち、たのしんで学べる環境を整備したいから。どこの誰が育てたのかを知らない学生たちの教育より、身近な力になってくださってる職員さんの成長を優先に願うから。
何より自身の生い立ちに理由があるのだろうと思います。
僕は遠縁にあたる田舎の薬局の二階で、幼児期を育てられました。薬屋の匂い、音、空気感、骨の髄まで染み込ませ、ここまで生きてきました。人を愛する薬屋をつくりだそうと、ひたすらホフクゼンシンしてきました。
この連休は横浜と鹿児島で、薬剤師を対象とする大きな学会が開かれています。つくられたガイドラインに踊らせれ、ひたすら医薬品を売りさばく小売人と化した調剤士たち。ランチョンセミナーという食事会も飲み会も、外資系製薬会社のスポンサー付き。会場外の小料理屋では自腹といいながら、助成金と同様の制度で成り立つ医療報酬のアブク銭を散在する経済活動。
もうそろそろ無駄なお祭りは終わりにしていいんじゃないだろうか。
そんなことを考えている平成27年の初冬です。